ボランティア - 有限会社 大多摩型枠工業所
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 VOLUNTEER

東日本大震災 災害ボランティアの記録

一路北上 2011年3月31日(木)

通行可能となった東北自動車道を一路北上。


上下線共に交通量はまばら。


パーキングエリアで昼食中の自衛隊は岡山県から。


被災地に向かうタンクローリーが数多く走っていた。

南相馬市 2011年4月1日(金)

南相馬市10キロ手前で立入制限中だったが、自己責任で立入させてもらいました。


市内では自衛隊を時折見かける程度で市民の姿は少ない。


南相馬市役所は少数精鋭で機能していた。


東京都あきる野市の幼稚園からの応援メッセージボード。


庁舎内に貼ってあった全国からの励ましの手紙。


津波に破壊された歩道橋。


壊滅した街の先に見えるのは発電所。


全てが泥まみれだった。


送電線の鉄塔はここから先は全て倒壊していた。


津波で消えた街並み。


荒野と化した街並みに絶句。

災害ボランティア 2011年4月2日(土)

第一原発から30km圏内の屋内退避指示範囲にある、南相馬災害ボランティアセンター。
すぐ隣の町のボランティアセンターは常に100人以上なのに、こちらは20名弱。
疲労の色は濃いが、皆さん自己責任で奮闘中。



救援物資は圧倒的に不足していた。
福島第一原発から30km圏内なので、救援物資がほとんど入ってこない。
写真の物資は県内外の一般の人達が、自家用車などで直接持ってきてくれた。



配給は週2回のみで、一人水2リットルと少量の米と果物か野菜くらい。


屋内退避地区にもかかわらず、1回の配給に約800世帯1000人以上が屋外に並んでいた。


東京から乗って行ったトラックで隣の町に行って、野菜を分けてもらった。
隣町の倉庫には大量の支援物資があふれていて驚いた・・・(その差に愕然)



途中、道をふさいでいた漁船。


隣の町では自衛隊が精力的に活動していた。
店舗も営業を再開して町も機能し始めていた。



災害ボランティアセンターに駆け込んで来た滋賀ナンバーのワンボックスカー。


福島第一原発周辺の動物を助けに来たNPO法人だった。


福島第一原発が見える所で保護された被曝した犬。
保護されて安心したのか、本当に嬉しそうで、思わず「よかったねー」と話しかけた。
これから放射能除去を行い命を救うそうだ。
「がんばれ・・・」と心の中でつぶやいた。

NPO法人動物愛護団体エンジェルズ理事長の林俊彦さん
「原発から20km圏内の避難地域には、沢山の動物が置き去りにされているんです。
犬猫は勿論のこと、馬や牛が街をウロウロしていました。
かわいそうなのは、リードでつながれたままの犬達です。
見つけたらリードを切ってあげたり、保護できる犬は保護しています。
ともかく急がないと時間がないんです」

明日のボランティアは午後12時半からなので午前中は市内の避難所を回って、
持参したペットフードを渡しに行こうと思った。

林さんのアドバイスに従い各避難所に問い合わせたら、
やはり飼い主さん達は皆さんペットフードが切れて困っていたそうだ。

お腹がすくのは、人間も動物も同じ。
的確なアドバイスに感謝した。

南相馬で奮闘 2011年4月3日(日)

東京から持ち込んだ80キロのドックフードをボランティアが始まる前に朝から配った。
あえて書くがここ南相馬市は第一原発から30km圏内の、屋内退避地区である。



最初はひまわりデイサービスセンター避難所に。
初老のご婦人二人にドックフードを差し上げた。
本当に申し訳ないくらい感謝されて恐縮。



ひまわりデイサービスセンター避難所にいた元気なわんちゃん。


南相馬市立原町第一小学校避難所。
原発から20キロ圏内の方々が多いそうです。
あるご婦人が、
「東京から来たの?福島は東京の犠牲になったのよ!原発は絶対に安全だと言ったのに・・・」
返す言葉が無かった。



避難所はペット禁止ですが、黙認してもらっているそうです。
ドックフードを差し上げたら、とても喜んでくれました。



校庭の車内にもわんちゃんが。
飼い主は原発から20キロ圏内の農家の方でしたが、津波で家も何もかも全て失ったそうです。
ご家族の生死は、聞かなくてもわかった。
ドックフードを差し上げたら、「ありがとう、がんばるよ」と、おっしゃってくださいました。



人影が全くない、JR常磐線原ノ町駅。


南は原発、北は津波で寸断されて、駅は陸の孤島状態。
JRの人に話を聞いたら、再開の見込みは全くないとのこと。
南(東京方面)に向かう路線はもう再開は無理だろうとも。



3月11日の地震直後から停車したままの列車。


インターネットのおかげで全国からボランティアが一気に40人に!
ツイッターに書き込みがあったそうです。
北は青森、南は沖縄から飛んできてくれました。
物資を個人的に持ち込んでくださる方も増えました。
でも、まだまだ足りません。



南相馬ボランティアセンターでの活動を伝える地元新聞。
相変わらず東京からのマスメディアは皆無。



野菜は貴重品なので、切り分けて配布しています。
かぼちゃは1/4、大根1/2、きゃべつ1/2、白菜1/4など。



ボランティアが終わった後、原発から20キロの立入禁止区域へ。
立入禁止の看板のみで警察や自衛隊の姿などは一切ない。
おそらく被曝を恐れているのだろう。
地元の自家用車だけが数台出入りしていた。



八王子のワークマンで購入した防護服を着て20キロ圏内に。


原発から15キロの所で、街をさまよう馬を発見。
馬自身も被曝しているだろうし、尚且つ被曝した草を食べていた。
何も出来ないのがもどかしい。



津波と原発で被災したホームセンター。 
現地では行方不明者や遺体捜索などは全く行われていない。



放射線量を考えると活動できる時間は2時間がタイムリミット。
現地に着いてから30分で日暮れになった。

津波に消えた小学生 2011年4月4日(月)

昨日は日曜日で40人いたボランティアが、今日は半分くらいに。
昨日は物資の管理や仕分けをしていましたが、今日は「薬班」としてお手伝いさせてもらいました。
家から動けない人に薬を届けたり、SOSの連絡を受けて状況に応じて対応するのが仕事です。



ご年配のご婦人の依頼で、南相馬市内の病院に処方箋をもらいに急行。


正面玄関は閉まっていた。


救急入り口から中に入る。


中に入ると、廊下には診察を待つ大勢のご年配の方々が。
心配や不安、深い悲しみなどやり場のない切迫した想いが伝わってきた。



市内の薬局に処方箋を持って行ったが、必要な薬の在庫が切れていた。
3日後くらいには入ってくるだろうとのこと。



原発のすぐそばから逃げて来た女性からSOS。
血圧が上がって体調がよくないとのこと。
避難した家に急行したら、生後3ヶ月の乳児も一緒だった。



先ほどの病院で処方箋をもらった。
その帰り道に斎場の前を通ると、駐車場から車があふれていた。
とても悲しいことだが、正直、遺体があって葬儀をあげられるだけでも幸せだと思った。
南相馬では津波で1800世帯が消滅し、遺体はほとんど見つかっていない。



自分が乗って行った八王子ナンバーのトラックは、薬班の緊急車輌(公用車)になった。
明日もこのトラックを運転して南相馬を走り回る。

薬班でペアを組んでいるMさんは地元の人です。
3月11日の話を聞かせてもらった・・・
ある小学校では、地震が来たので机の下に隠れてやりすごした後、
校舎から出て校庭に全員避難したそうです。
その後、緊急連絡網で親御さんに連絡して生徒さんを迎えにきてもらいましたが、
連絡のつかない親御さんもいたそうです。
それでも、もう地震も落ち着いたので大丈夫だろうと残りの生徒さん達を下校させました。
子供達が自宅のある海の方面に向かった後、津波が襲ってきました。
子供達はどれほど怖かったことか・・・
まだ見つかっていない、泥の中に眠る子供達。
大丈夫だろうと判断した先生方は今も苦しんでいるそうです。

頬を静かに流れる涙 2011年4月5日(火)

誰もいない朝8時の原ノ町駅。
3月11日の地震から時が止まってしまった。



午前8時30分から始まる災害ボランティアの朝ミーティング。
活動時間は午後5時からの夜ミーティングまで続く。
ここは屋内退避兼自主避難地区なので、「自己責任で」という言葉が何度もくり返される。
辛くても、苦しくても、誰も弱音を吐かない。



配給開始2時間前なのに、既に人が並び始める。
何度も言ってしつこいと思うが、ここは原発から30キロ圏内の屋内退避兼自主避難地区だ。



配給の列に並んでいる人が連れてきたワンちゃん。
見ているだけで癒される。



神奈川県から知り合いが友人などにも呼びかけて、たくさんの支援物資を積んで来てくれた。
ありがたくて、頭が下がる。



配給が始まる頃には、長蛇の列。

受付で待機していたら、とても辛らそうな表情のご婦人が目の前に。

「避難しろと言われても、犬を6匹連れて避難はできないから、
どうしたらいいかわからないの。
2匹は13歳だから誰かに預けるのもかわいそうで、
最後の時は看取ってあげたいし、どうしたらいいか・・・」

思わず、「避難しないで家にいましょう。その方がワンちゃん達も幸せだし」と言ってしまった。
聞いたら、自宅は原発から17キロの小高という避難地区で、
避難しないとお役人に迷惑をかけてしまうと苦しんでいた。
息子さんは自衛隊員で、他県へ災害派遣に行っているそうだ。
誰かに避難しなくてもいいと言ってほしかったのかもしれない。
「ドックフードは足りてますか?」と聞いたら、
「大丈夫だから」と。
「多くても困るものではないから」と、半ば強引に受け取ってもらおうとしたら・・・
目から大粒の涙が。
持参していた大袋2つを手渡した。
冬の寒さにじっと耐えて生きてきた東北の人達はとても我慢強い。
自分よりも困っている人がいるかもしれないと思いやる気持ち。
今はつらくとも必ず乗り越えてくれる、乗り越えて欲しい。
頬を静かに流れる涙を見ながら、そう思った。

今日は緊急要請に備えて朝からずっと待機して終了。
待つこともボランティアの仕事の一つ。
出番がなくて何よりの一日だった。

追記:今夜から、20キロ圏内の各入口は、完全防備した警官が立ちふさがり、出入りできなくなっていた。

南相馬で生きる 2011年4月6日(水)

初参加のボランティアが10人も来てくれた。


自衛隊がここ数日の間に急に増えてきた。
特に何をするでもなく不気味だ。
屋内退避兼自主避難地区から、強制的な避難地区にならないことを祈りたい。



自衛隊の車輌に混じって、一般車も日に日に増えてきた。


我が目を疑った・・・何と教習中の教習車が何台も走り回っている。


コンビニも営業を始めていた。


市役所にもたくさんの車が。
どうやらこの街の人達は「南相馬で生きる」覚悟を決めたようだ。
覚悟した人間は強い。
決して原発にも屈しないであろう。
たとえ南相馬が、日本政府が決めた屋内退避兼自主避難地区であってもだ。



午後は鹿島厚生年金病院に処方箋をもらいに行った。


開き直ったのか、洗濯物を外に干すつわものまで現れ始めた。


営業中の張り紙を見つけて思わず飛び込んだ。
ボランティア仲間への差し入れに南相馬名物、しおたい焼を30個ゲット。
お金を渡して「お釣りは受け取ってください」と言ったら、店主が困った顔をしながら涙ぐんだ。
困っている時はお互い様だ。



お年寄りには、力をかけなくても開けやすく、そのまま食べられるレトルト食品もありがたい。


支援物資の倉庫には冷蔵庫がないので、常温で長期保存できる食品もありがたい。


今日はもう終わりかなと思ったら、急遽出動。
かかりつけの病院が休みだったので、急遽、市立病院に行く。
頼み込んで処方箋を書いてもらった。
やっと終わって帰ったら午後6時近かったが、すごくいい匂いが・・・
ボランティアしている人達の為にと、支援物資を持って来てくれた人達が焼き鳥を振舞ってくれた。
ボランティアしている自分達にボランティアしてくれる人が現れるなんて、思ってもみなかった。
とても美味しかったです、ごちそう様でした。





支援物資と一緒に送られてきた手紙の一部。


活動が終わったあと津波で消滅した街に行ったら猫が2匹いたので、
持っていたドックフードを置いてきた。
意外と猫はドックフード好きだったりする。



消滅した街には被災者の持ち物が無数に散らばっていた。
いよいよ明日は最終日。
新人ボランティアに仕事の引継ぎをする。
東京は桜満開だろう。
桜咲く南相馬をいつか観たいと思う。

南相馬最終日 2011年4月7日(木)

災害ボランティアも最終日になってしまった。
今日は救護班として動くことに。
キャプテンは頑張り屋のMさん。
恒例の朝ミーティングも今日が最後。



地元の高校生もボランティアに来てくれた。


朝ミーティングの最中にも、ボランティア希望者が。
絶対数は少ないが、順調に増えているので少し安心。



カーナビだと道路も家もないことになっている所にも行く。


一緒に組んで回った看護師のSさん。
丁寧で的確な対応で、お年寄りも安心。



震災後、今日初めて南相馬に医療団が入ってきてくれた。
確かにありがたいことだが、正直、遅すぎる。



最後の夜ミーティング。
別れのシチュエーションは苦手なので、
フェードアウトするように誰にも何も言わないで災害ボランティアセンターを後にした。



緊急用のプレートも外した。


南相馬での最後の食事はラーメン。


福島市内の避難所から覚悟を決めて帰ってきたそうだ。


すごく美味かった。


東京に帰ってきたら桜が咲いていた。

トラックで東北道を南下中の午後10時くらいに携帯が鳴った。
救護班キャプテンのMさんからだった。
黙って帰ったのがばれて怒られるのかと思ったら、
しきりに、最後にご挨拶できなくてと謝られてしまった。
全く、いい人にも程がある。

節電ムードでも東京はものすごく明るく感じた。
夜中でも、普通にコンビニやファミレスが営業していて、人が普通に歩いている。
帰って来て、ものすごくほっとした。
車の窓も開けられる。
腕だって、まくっても大丈夫。
深呼吸だってできる。
普通のことが幸せだ。

原発から25キロの南相馬にいる時は気づかなかったけれど、
東京に帰ってきて気づいた。
自分は帰るところがあったけれど、
南相馬の人達には帰るところがなかったってことが。
それは当事者以外にはわからないつらさだと思う。
自分はなんて無神経で気楽だったんだろう。
わかることができなくて本当に申し訳なく思う。

南相馬では、毎日涙を見て、毎日涙ぐんで、
今は、何気ない日常の光景を見て考えさせられる。
ここでは何もできないのが悔しくもある。

南相馬の渡辺病院のベンチで、自分の隣に腰掛けたおばあさん。
まっすぐ前を見据えながらつぶやいた。
「なんだって、こんなことに、なっちまって・・・」

南相馬から戻って 2011年4月8日(金)

1800世帯が壊滅し、1000人を超える人が今もこのがれきの下に眠っている。
南相馬から東京に戻って来たが、やっぱり夢に見るし気になるしで落ち着かない。
今頃は朝ミーティングか、今頃は配給に並び始める頃かとか。
でも正直、大した仕事もしていないのに、本当にものすごく疲れた。
目がぼやけるしフラフラするしで倒れそうだったけれど、
被災地の人はもっと疲れていると思う。
自分と入れ替わりにやっとメディアが入ったみたいで、テレビに南相馬が映っていた。
みんな遅すぎる。
それなりに頑張っているのかもしれないけど、政府も自衛隊も警察もメディアも。

子供たちの笑顔 2011年8月2日(火)



気がかりなことは、夏休みになっても被災地に大勢いる子供たちのことです。
それで今回は子供達に笑顔を届けたいと思いました。
子供たちの笑顔は、何よりも大人の元気のもとですから。
自腹なので大量には用意できませんでしたが、
被災した子供たちが通う南相馬市内の二箇所の保育園へ、
風船、花火、シャボン玉、紙風船、竹トンボ、風車を贈らせてもらいました。

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